「3.11 その時、私たちは」 @ 〜支援活動レポート〜


 2011年3月11日。その日の午後、私たちはこの後何が起こるのかも知らずに、いつも通りの業務を行っていました。

 「そういうことであれば今後の販売綱領に付け加えなければならないかも知れないな・・・」
 今後の課題をテーマに社員と定例の会議を行っていたその時でした。

 最初は小さな揺れから始まったその地震は、どんどん大きさを増し、これまで体感したことのない横揺れと縦揺れの入り混じったとてつもない揺れに変わっていきました。

 2011年3月11日午後2時46分18秒、宮城県牡鹿半島沖を震源地とした日本の観測史上最大であるマグニチュード9.0の大地震が東日本を襲っていたのです。

 私もあまりの揺れに混乱していましたが、皆が戸惑う姿を見て思わず叫んでいました「みんな机の下へ! 外に出てはだめだ!」。

 数分で大きな揺れは収まり、状況を把握しようとテレビの電源を付けてみました。
「ただいまの地震の震源地は宮城県沖、震度7、マグニチュード7.9(発生当時)、沿岸部は津波の恐れが・・・」
 その時、テレビに映されていたのは津波という自然の猛威が人間の生活を破壊している光景でした。路上に船が打ち上げられる、車が横転して山積みになっているなど、想像を絶する被害状況、増え続ける死者・行方不明者、原発事故・・・。ついさっきまで平穏な時間が過ぎていたはずの日本が、一瞬で地獄の底へ突き落とされたのです。

 携帯電話がパンク状態の中で、固定電話を使い何とか加盟団体の安否の確認を急ぎながら、頭の中は震源地近くのお客様のことで一杯になっていきました。「東北は競馬好きの人が多い。お客様は大丈夫だろうか・・・」そんな心配も空しく、通信網の崩壊された東日本では被災地の被害の実情も把握できないのが現実でした。

 3月14日。震災後、最初の土日は福島原発事故の話題で、国民の不安がピークに達していました。連日放射能関連の報道がテレビを占領し、在留外国人は母国に次々と帰国、日本人も多くの人々が関西方面へと避難していく中、私たちは通常通り出社し状況把握に努めました。加盟団体からの話で、宮城、岩手、福島などのお客様はいまだに連絡のつかない方が多く、加盟団体の社員の家族の中には今回の地震で被災された方もいるということを知りました。

 「東北では今も救援を待っている人々が何万人もいる。それに対して、他の地域では周りのことを考えない買い占めや、逃避ともいえる避難が当たり前のように横行している。今、日本は未曽有の危機に瀕しているのだ。これは長年日本を苦しめてきた自己中心主義との戦いなのかもしれない」
直感的にそう思いました。
「今から東北へ救援物資を届けにいこうと思う」。
今思えば当たり前のことを言っただけだったかもしれませんが、その時の状況を思えば無茶なことを言っていたのでしょう。
「そんな! 東北は原発事故による放射能汚染が・・・」
「物資だって今は買い占めがひどくてなかなか手に入りませんよ!」
「東北に向かう道路も津波で壊滅していますし!」
心配する社員から色々な意見が出ましたが、今私欲を捨てて助け合わなければ、日本は駄目になると思っていた私は、
「こんなにすさまじい被害の映像を毎日見ていて何も感じないのですか? 私は同じ日本人として被災した一部の人たちだけが苦しんでいるのを、何もせずに見過ごすことは絶対にできない。たとえどんなに苦労をしようとも、今日の食べ物に困っている人達がいる以上、私は救援物資を届けにいく。協力したい者だけでもいい。力を貸して欲しい」
と説明しました。皆にも心の中には同じ思いがあったのでしょう、日本情報機構は一丸となって被災地支援を全力で行うことを全員で決めました。

 全加盟団体にも協力を求めたところ、被災地支援を考えていた会社も多く、大きな反響があり日本情報機構と加盟団体による被災地支援が急ピッチで始動していきました。東京も原発事故の影響や計画停電、物資の買い占めなどで不安が続いていた状況だったにも関わらず、積極的な支援を申し出る加盟団体各社の暖かさに胸が一杯になりました。

 今後、随時支援レポートを更新していきます。

 「3.11 その時、私たちは」 A 〜支援活動レポート〜

一般社団法人 日本情報機構

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